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変わらない何かを求めてブルックナーもマーラーも想像を絶する長大な交響曲を書いたのだろう。ただブルックナーは生命の永遠性や復活を疑うことはなかったのに比べて、マーラーはもっとアンビバレントな状態にいたのではないだろうか。ブルックナーはカトリック教一筋であったけれど、マーラーは改教したり仏教や儒教への接近もしている。極論すればブルックナーは楽観的でありマーラーは悲観的かもしれない。僕自身はブルックナーもマーラーも好きであるが、自分自身の心理状態によってどちらが聴きたくなるかが決まるようだ。ブルックナーは無垢の自然のままだから、その音世界にただただ浸らせてくれはする。でもブルックナーという「人」はそこにいないような気がすることがある。マーラーは常にそこにマーラーという「人」がいて、共に悩み苦しんでくれるかのようだ。完成された最後の純粋器楽曲ということでブルックナー第8番とマーラー第9番を聴き比べてみるとよく判る。前者は時に作曲家の顔が見えなくなる。原始より存在した音が確かにあって、たまたまその音を聴くことができて楽譜という形にできたのがブルックナーだったように思える。アダー
ジョで執拗に繰り返される弦楽器の三連符を含んだ伴奏型は、実際に弾いてみると、作為というものが感じられず、ブルックナー自身が現実の何もかもを包みこんでいる「宇宙」の音をそのまま楽譜にしたらこうなった、とでもいうように感じられる。一方後者には生命の有限性と永遠性の狭間でもがき苦しむ作曲家自身の顔が常に浮かんでくる。ブルックナーにある予定調和はなく、どこに向かうのか判らない、答えのない混沌がある。でも人は必ずしも予定調和で癒されるわけではなく、混沌を共有することによって初めて安らぎを感じることもある。ブルックナーを聴くか、マーラーを聴くか、この選択のファクターはこのあたりにあるような気がする。とにもかくにも、今回、大谷さんの指揮でブルックナー第8番を弾けたことは大きな大きな体験だった。それを芸術体験と呼ぶべきか、哲学体験と呼ぶべきか…いや、そのどちらでもあるのだろうと思う。大谷さんは「数年後にマーラー第9番を振るから弾きに来て下さい」と僕に言われた。僕はこう答えた。「その時まで絶対に生きています!」